| 三浦半島・20世紀の事件簿に戻る |
| 哀れ記念艦の末路〜東郷さんも苦笑い |
| 昭和22(1947)年7月29日・神奈川新聞 | |||
| 敗戦の結果、浮びあがるもの、抹殺されるもの、この2つの運命はあながち人間の社会や銅像の世界ばかりではない。その審判の日を静かに待っているものの1つに記念艦三笠がある。横須賀市白浜海岸に大正14年以来コンクリートで固められた三笠は東郷元帥とともに軍国主義の生きたお手本として観覧者の数は日に数千を数えたものである。 しかし、いまや世界は一転した。横須賀の市民はこの軍国主義の殿堂だった三笠がどのような審判をうけるかについて少なからず興味をもっている。動ける艦船なら賠償物資として連合国に引渡されるという手もあるのだが、周囲をコンクリートで固められた三笠は足腰の立たない廃人同様である。だがこの廃人みたいな三笠も各方面から相当の秋波が向けられているから面白い。 現在同艦は大蔵省所管となっているが、某会社ではマスト・煙突を総て取り除き、臨海ナイトクラブを作ってはという名案を出すかと思えば、将来この地の利を生かして海洋競技のクラブ・ハウスにしてはという比較的堅実な政策を秘しているなどなかなか興味深い。 もっとも、終戦のどさくさにまぎれて、艦内にあった赤いジュータンや貴重品は誰かが勝手に処分したというから、地下の東郷さんもさぞ苦笑いしたことであろう。 |
|||
| ●巨体はつらいよ● | |||
第二次世界大戦が終わった直後の新聞を読んでいると、その多くが怒り狂っていたり厭世的になったり、”あぁ、もうだめだぁ調”だったりして、その表現のすごさに思わず唖然とするものが多い。
街を明るくしましょう/戸締りを厳重にすること/逃げ隠れすることは止めましょう/むやみに卑屈になったり愛想笑いをしない・・・ 戦争に負けたことは何とかわかったけれど、このあとどうなるかなんて誰もわからない時代。明日の日本より今夜いかに食料を揃えるかが大事。今となっては体験しようもないこんな大混乱の昭和22年、どこかにひっそりと身を隠すこともできずにいた軍の遺物が、三笠だった。 実はこの記事の約1年前、こんなことを書かれている。 |
|||
|
|||
| おいおい、そこまで言うか・・・今となっては絶句するばかりだが、当時の雰囲気って実際こんなものだったんだろう。軍艦も戦闘機ももう見たくない。頼むからあっち行って、このウジ!みたいな感じなのかもしれない。 そこで標的になったのはやっぱり三笠。 あ、見つかっちゃった・・・。という三笠の悲鳴が聞こえたのか聞こえないのか、昭和24年には米軍相手のダンスホールと、そして何と水族館までできてしまう。 ちょっと見にくいが上の画像は当時のもの。マストと煙突はなくなっていて、これが戦艦だったなんて、初めての人にはわからない。 |
|||
| そして右上の画像は水族館のアップ。上甲板の後部の砲塔をとってそこに作られていたものらしい。 しかも”終戦のどさくさにまぎれて、艦内にあった赤いジュータンや貴重品は誰かが勝手に処分した”なんてひどすぎる。 ところが悲劇はまだ続く。何と、1950年から始まった朝鮮戦争で鋼鉄素材が高く売れると考えた解体業者が”平和利用”の名目で主砲を鉄くずとして売り飛ばしてしまったのだ。 かつて日本の危機を救った主砲が鉄くずになってしまうような極度の荒廃を乗り越え、記念艦三笠が復活したのは昭和36(1961)年のこと。これには三笠保存会の尽力が大きかった。 この年、ソ連は人類初の有人宇宙飛行を実現させ、アメリカのケネディーはアポロ計画を発表した。激動の時代を生き抜いた三笠は、人類の眼が宇宙に向っていったこの時期に、ひっそりと第二の人生を歩み出したのだ。 |
|||
| その後の三笠は《モテています明治ムード〜見学者ウナギのぼり》へ | |||
| 現在の三笠は《平和な国のさまよえる大砲〜記念艦三笠》へ | |||
| 三浦半島へ行こう!へ戻る |
| 2001.8.12 |