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      横須賀のシンボル、姿消す
〜ガントリークレーン13本の支柱解体終わる
     
昭和50(1975)年 1月31日・神奈川新聞
横須賀のシンボルとなっていた横須賀市本町3丁目の住友重機械工業横須賀分工場内のガントリークレーン(高架起重機)がこのほど、市民の前から姿を消した。
ガントリークレーンは、英国サー・ウィリアム・アロム社と三菱造船所が大正2年に建造した長さ329m、幅40m、高さ48mの鉄骨製クレーン。
以来61年間、親しまれて来たが、寄る年波と新造船工法の採用から解体することになり、去年7月30日に進水した「大豊丸」を最後に、同8月7日早朝から解体作業を進めていた。
鉄骨材総重量3000トンの同クレーンの解体には1500トン海上クレーンも登場したが、主に新たに引き込んだ100トンクレーンなどを使って進められ、去る29日、13本ある支柱の解体を完了した。
解体された鉄骨は逐次海上の台船に運ばれ、小さくバラされているが、米海軍横須賀基地にある2本の支柱は米軍側のクレーンの柱になっている。このほか4つの支柱が照明器具等を設置するために残されている。
撤去費用は約8000万円スクラップとして売却代約9000万円で「やや残る勘定」(同社浦賀造船所総務部)という。
●ガントリークレーンを知っていますか?●
京浜急行の下り線、汐入駅のホームに着く直前のトンネルを抜けると、左側にはよこすか芸術劇場、横須賀プリンスホテルやダイエーショッパーズプラザなどの建物群が見える。
今や横須賀の新しい中心地になりつつある海沿いのショッピング・文化ゾーンだが、そこに昔大きな大きな鉄骨がそびえたっていたことを知っている人も多いだろう。
ガントリークレーン
大きな船を作るための、巨大なクレーンだ。
大正中期のガントリークレーン
大正中期のガントリークレーン
「目で見る横須賀・三浦の100年」より
1945年のガントリークレーン周辺
1945年のガントリークレーン
現在の汐入周辺
現在の汐入周辺
解体直前のガントリークレーン(昭和49年)
解体直前のガントリークレーン(昭和49年)
「目で見る横須賀・三浦の100年」より
この大きな鉄骨は1908(明治41)年3月、横須賀海軍工廠の第2船台に設置された。この海軍工廠には最盛期に10か所ほどの造船設備があったが、ガントリークレーンが設置されたのは第2船台だけだ。
今の米軍基地正門のちょっと左からダイエー横須賀店の位置まで斜めに横たわる、巨大なクレーンだった。
建造時のサイズは長さ205m、幅32m。
翌年に24mほど延長されたが、この初代ガントリークレーンはなぜか一度解体されている
解体されたクレーンは舞鶴と佐世保に分割して譲渡され、横須賀の第2船台には1913(大正2)年2月、新たなガントリークレーンがよみがえることになる。
2代目のクレーンは外国生まれだ。
イギリスのサー・ウィリアム・アロル社製で、鉄骨上を走行するヤードクレーンは三菱製。長さは247m、幅35mと初代よりもパワーアップしたものだ。
さらに1920(大正9)年には長さ330m、幅35m、高さ48mというサイズに落ち着く。
解体直前のガントリークレーン(昭和49年)
解体直前のガントリークレーン
(昭和49年8月)
「横須賀海軍工廠外史」より
空母「飛龍」
空母「飛龍」
この延長の際、付近にある数軒の民家が立ち退かされるほどだったという。
そしてここでは大型空母や戦艦など主力艦がたくさん作られることになる。
こうして、ガントリークレーンは海軍、そして横須賀のシンボルとなっていった。
そのシンボルに最大の危機が襲ったのが1923(大正12)年の関東大震災
しかし市内で7000戸以上が全壊し、4700もの家が焼失する中で、この鉄骨はびくともしなかったのだという。
右の画像は今の横須賀プリンスホテルの辺りから写された震災前のもの。
右側のとんがった屋根の建物が一瞬にして倒壊し、付近ががれきの山になってしまったのが下の画像だ。
大騒ぎの市民の背後で不気味にたたずむ無傷のガントリークレーン・・・。
何だか象徴的な画像だ。
関東大震災前のガントリークレーン
関東大震災前のガントリークレーン
「目で見るよこすか100年」より
関東大震災直後のガントリークレーン
関東大震災直後のガントリークレーン
「目で見るよこすか100年」より
ちなみにこの時、第2船台では戦艦「天城」が建造中だったが、地震で壊れてしまい、廃艦になってしまったというおまけつきだ。
そんな強い強いガントリークレーンも、戦争が終わって米軍の管轄下に入るころからはだんだんと負の遺産として市民に見られるようになったのかもしれない。
平和な世の中になってもいまだデーンと居座る巨大な鉄骨
京浜急行の通勤電車から見えるそれはさぞかし異様な光景だっただろう。
ガントリークレーンの晩年。
1960(昭和35)年、「旧軍港市転換法」、いわゆる軍転法によって米軍から住友重工に払い下げられてからも造船はしばらく続いた。
当時は高度経済成長に乗って日本の重工業が飛躍的な発展を遂げていた時期。
このガントリークレーンは戦争の影から抜け出て、横須賀そして日本の産業の象徴として大活躍していったのだ。
しかしその繁栄も長くは続かなかった。
昔ガントリークレーンがあった場所
今は高層の建物が林立する 記事には解体が決まった理由を「寄る年波」なんて言葉であらわしているが、「横須賀市史」は『船舶の建造方法が、設備の合理化から総合組み立てによる溶接ブロック工法に変わり、新工法にそぐわなかったことと、造船界を取り巻く不況を打開するため、工場の集約化が進められた』ためとしている。
つまり、古くなったし不景気だし・・・ということだ。
米軍から払い下げられた時点ですでに時代遅れだったという指摘もあるが、高度経済成長の終焉とともに、ガントリークレーンは横須賀から姿を消すことになったのだ。
最晩年には巨大な鉄のお化けのようになってそびえ立っていたガントリークレーン。
8000万円の費用をかけて取り壊され、そして鉄は9000万円で売れた
ここで作られた軍艦はもちろん残っていないし戦後に作られた船ももうこの世に存在しないかもしれない。
ガントリークレーンという聖地が消え、そして2003年、住友重工浦賀造船所も閉鎖され、横須賀から造船の灯が静かに消えようとしている。
かつてガントリークレーンを見上げた場所には今、澄んだ真っ青な空が広がっている。
夕暮れのガントリークレーンはどうだったんだろう?
●参考・引用文献●
「横須賀市史」(昭和63年・横須賀市)
「横須賀海軍工廠外史」(平成2年・横須賀海軍工廠会)
「目で見るよこすか100年」(昭和57年・横須賀市)
「目で見る横須賀・三浦の100年」(平成4年・郷土出版社)
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2002.7.22