追悼・大島昌宏
横須賀ものと越前ものを遺して
文芸評論家・清原康正

大島昌宏さんが肺癌のために急逝したのは、昨年の12月14日のことであった。体調を崩して近いうちに検査入院すると、9月26日の尾崎秀樹会長の葬儀に参列された大島さんから直接に聞いてはいたが、その後、肺癌宣告があり、たった2ヶ月で亡くなる早い病状の進み具合であったという。

 大島さんの訃報に接してしばらくしてから、新刊の『海の隼ー参謀・三浦按針』(学陽書房)が届いた。『罪なくして斬らるー小栗上野介』(新潮社)に『北の海鳴りー小説・中島三郎助』(新人物往来社)と横須賀にゆかりの深い人物を取り上げてきた大島さんの横須賀三部作の3作目となる書き下ろし長編だが、大島さんはそのカバーデザインを確認した段階で入院したのだった。
 大島さんの処女作は、1911年(平成3年)に刊行された『九頭竜川』(新人物往来社)であった。昭和20年代の福井市を舞台に、九頭竜川で女鮎漁師としていきるヒロインの青春を描いた長編で、空襲・大地震・大洪水と3連続の災害に見舞われた福井市の戦後の復興の模様とたくましく生きる福井市民の姿が、遠景に置かれていた。作品の底流には鮎釣りの技法も含めて伝承の大切さが盛り込まれていて、現代の日本人が忘れていたものを思い起こさせてくれる作品であった。
この処女作からも分かるように、大島さんは福井市の出身である。1934年(昭和9年)7月27日生まれで、県立藤島高校から日本大学芸術学部映画学科へと進み、卒業後は広告代理店数社に勤務して、30年間に約1000本のテレビCMを制作した。小説を書き始めたのは50歳を過ぎてからのことで、それまではCM用の脚本は書いたものの、小説は書いたことがなかったと、これは大島さんから聞いたことである。 福井県大野市・朝市にて
6年かけて書き上げたこの処女作で1992年に第11回新田次郎文学賞を受賞した大島さんは、受賞後から、ペリー来航時の浦賀奉行与力で、後に日本最初の洋式帆船を建造した中島三郎助の生涯を描く歴史小説『北の海鳴り』の連載を始めた、刊行は1995年のことだが、その連載中に、幕末期の開明派の幕臣として幕政改革につとめ、横須賀製鉄所(造船所)建設に向けて情熱を注いだ小栗上野介忠順の生涯を描いた『罪なくして斬らる』の執筆にも取り組んだ。書き下ろしのこの長編が先に1994年に刊行され、翌95年に第3回中山義秀文学賞を受賞したことで、大島さんは時代・歴史小説の新たな有力な書き手として認知されるに至った。
新田次郎文学賞授賞式にて
この2作に続く『海の隼』は、関が原の合戦の半年前に豊後に到着し、徳川と豊臣、旧教と新教などさまざまな2極対立の中で徳川家康の外交顧問、参謀となったイギリス人航海士ウイリアム・アダムス=三浦安針の日本での数奇な運命を描いた長編である。家康亡きあとの運命にも触れ、イギリス人から見た家康像が興味をひく。
この他にも、幕末の動乱期に黒船をもたらした写真術と取り組んで、日本最初のプロカメラマンとなった下岡蓮杖の生涯を追って、写真術の先駆者から見た幕末維新史を浮かび上がらせた『幕末写真師 下岡蓮杖』(学陽書房)がある。蓮杖が小栗や中島と邂逅するさまもとらえている点では、横須賀三部作の系譜に連なる作品である。 『九頭竜川』執筆のころ
大島さんにはこうした横須賀ものの歴史小説の他に、故郷福井の歴史・風土・人物を取り上げた福井・越前ものがある。その現代小説作品が処女作の『九頭竜川』であった。歴史小説作品としては、幕末期の越前大野藩の財政を画期的なビジネス手腕で建て直した内山七郎右衛門良休の生涯を描いた『そろばん武士道』(新潮社)、幕末期に越前藩の財政救済に尽力し、維新後は明治新政府の台所を支えた三岡八郎、後の由利公正の異才ぶりをとらえた『炎の如くー由利公正』(福井新聞社)、家康の第三子に生まれ、秀吉の養子となり、越前福井藩藩祖となった結城秀康の徳川宗家に対する屈折した思いと数奇な運命を描いた『結城秀康ー秀吉と家康を父に持つ男』(PHP文庫書き下ろし)などがある。
『そろばん武士道』と『炎の如く』の2作には、経済通の両者を描くことで幕末期の越前をより具体的にとらえようとする視点が感じられるのだが、日本海軍の先駆者を描いた『罪なくして斬らる』『北の海鳴り』の2作に続くこの2作の経済歴史小説で、大島さんは自らの作品領域を広げていった。小栗と中島は幕末期を生きた人物であり、内山と由利は幕末期から明治期を生きた人物である。この4人共に、現代とつながっているという実感が強い、と大島さんは語っていた。この実感こそが、大島さんにとって歴史小説を書く強いエネルギーとなっていることが分かる。
大衆文学研究賞授賞式 その他にも、『海の隼』と前後して刊行された『柳生宗矩−徳川三代を支えた剣と智』(PHP文庫書き下ろし)がある。家康・秀忠・家光の三代に将軍家兵法指南役として仕えた柳生宗矩が、剣の道の究極に治世の奥義をつかんでいく波瀾の生涯を描いた長編で、横須賀ものや越前ものとは異なる趣向がこらされているのだが、時代潮流とのからませ方やその中での個人の生のありようをさぐる現点に、共通した独自の史観がうかがえる。
大島さんと初めて会ったのは、1992年5月29日、第11回新田次郎文学賞の贈呈式の折であった。以来、文壇パーティーや研究会などでお目にかかって近況をうかがうと、いつも次作の構想をにこやかに語っていた。温厚で笑顔が素敵な紳士という印象は、私の中でその後も変わることがなかった。
1995年の7月と10月に、大島さんと1泊2日の小旅行があった。7月は、群馬県倉渕村の東善寺で行われた小栗上野介に関するシンポジウム「権田村における小栗上野介と幕末」に、大島さんや萩尾 農(みのり)さんと共に私もパネラーとして参加した。星亮一さんのコーディネートによるシンポジウムであった。10月は福島県大信村で行われた第3回中山義秀文学賞の贈呈指揮に出席した。4日の夜、大信村の近くの二岐(ふたまた)温泉で前夜祭が行われ、大島さんからCM制作時代のことを聞いた。 書斎で チロと
横須賀市のヴェルニー・小栗祭と呼ばれる製鉄所開設記念式典のことを大島さんから聞いて、研究会の旅行で出かけてみようという計画を立て、電話で何度か打ち合わせをしたこともあった。大島さんは細かな点まで事前打ち合わせを済ませていたのだが、日程の都合などもあって、この計画は流れてしまった。横須賀ものの書評や『罪なくして斬らる』の文庫解説を書いたこともあって、一度、ゆっくりと横須賀を訪れたいという私の個人的な願いも、なかなか実現にこぎつけなかった。 
 大島さんのガイドで横須賀市の歴史散歩という贅沢なプランは、もはや不可能となってしまった。  合掌

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