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昔アメリカだった場所〜長井飛行場跡
横須賀市長井 [地図]

●長井海の手公園の工事中で、現在は入ることができません。


どこまでもまっすぐなコンクリートの道が続く長井の丘陵地帯。
この一体の外側は大根畑が広がり、すぐ下の海では古くから漁業が盛んだった。
江戸時代からはカツオ漁をはじめとして栄えた港は、今もしっかり現役だ。
そんなのどかな田園風景が一変したのが昭和になってから。
現長井中学校の敷地にあった海軍砲科学校長井分校、天神島沖を向く砲台、荒崎の砲台・・・当時人口6000人ほどだった小さな村はその姿をどんどんと変えていったのだ。
牧歌的な雰囲気
昭和29年の長井『空から見る三浦半島』より
昭和29年の長井
『空から見る三浦半島』より
そしてついに1943(昭和18)年秋、横須賀第二飛行場の建設が始まるのだ。
それまではかなりなこう配地だったところに盛り土をして平坦にする難工事だ。
作業は、徴用兵が使われてました。時間がないため、かなり無理な仕事であったようです。徴用兵は、牛や馬のように働かされ、動けない者には精神棒というものでたたくようなこともありました。
『長井のあゆみ』(1979年・長井小編)より
こうして飛行場が完成したのが1945(昭和20)年の終戦直前。特攻隊の基地というのが目的だったというこの飛行場。しかし結局5・6機の偵察機しかなかったという説や戦闘機”雷電”が数回飛んだという話もあるが、いずれにしてもほとんど使われなかったようだ。
そして終戦。
1945年の12月には広大な飛行場はほとんどが開墾されて麦畑になっていく。しかし一部はアメリカ軍に占領され、今度はヘリコプター基地という役割を背負わされるのだ。
作ったとたんにアメリカのものになってしまった滑走路を、地元の人は”まるでアメリカのために作ったみたい”と思ったという。
そしてこれがまた大問題を引き起こす。
騒音がひどくて学校の授業が成り立たないほどな上に1955(昭和30)年には米軍ヘリが墜落して乗員が1人死亡。農作物に被害が出るなど暗い歴史が続く。
そしてその後にこの地を占めたのは米軍住宅、いわゆる”長井ハウス”だ。
右の画像は昭和60年のものだが、緑の芝生の中に点在しているのが米軍住宅。
白い壁、ゆったりとした間取りに広大な庭・・・。
この丘陵地帯に出現したアメリカの暮らしは戦争に翻ろうされたこの地域の人たちにどう映ったんだろう。
昭和60年の長井『空から見る三浦半島』より
昭和60年の長井
『空から見る三浦半島』より
昔の遊び場跡 その長井住宅も1985年に返還され、この丘も40年ぶりに日本に戻った
敷地内は滑走路が昔のままに残っているが、そこがアメリカの住宅地だった形跡は左のような遊び場跡くらい。
道と道の間の敷地には木が生い茂り、訪れたときは春の風の中で桜がのびのびと咲いていた。
それにしても広い。
滑走路だけでも2kmくらいあるだろうか。それ以外にも駐機場などのスペースを加えると20万平方メートルくらいあるそうだ。東京ドームが4・5個入る計算だ。
滑走路跡の手前と奥には今でも自衛隊の航空無線標識所とアメリカ軍のレーダー施設が残っている。
まだまだ長井は軍の要衝のようだ。
米軍のレーダー基地が残る
長い長い滑走路 そして21世紀。
この広大な敷地には、横須賀市が『長井海の手公園』の建設を計画している。
年間来場者70万人、駐車設備1500台。2005年の4月に完成の予定。
この公園にはフランス・南プロバンス地方の田園風景をイメージして農業体験などができる施設やサイクリングコース、多目的グラウンドなどを作っていくのだという。
日本、アメリカときて、今度はフランス・プロバンス・・・
丘の下には今でも昔ながらの漁村の風景が残り、丘に上がる途中では鮮やかなキャベツ畑が広がり、そして遠くにくっきりと富士山が見える場所。ここはまさしく日本の長井
そこにドカドカとやってくる戦争もアメリカもフランスも何だかここには似合わない。
この大地が落ち着くときはいつ来るんだろう?
それは60年近くここに横たわっているこの滑走路が一番思っていることなのかもしれない。
周囲はこんな風景

●関連情報● 本当にこわい廃墟2←米軍長井ハイツの名残が見られます。
●引用・参考文献●『長井のあゆみ』(1979年・長井小学校編)
『空から見る三浦半島』(1987年・よこすか80周年イベント実行委員会編) 

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2002.3.31